2006年02月12日

亡国のイージス この国の安全を考える

 福井晴敏先生の『亡国のイージス』は去年に小説を読みましてなかなか考えさせられるところがありました。先ごろ映画版をレンタルで見ましたが、ネット上の批評サイトでその評価があまり芳しくないことを知ってましたので過大な期待は抱いていなかったわけですが、やはり私もその例に漏れずあまり面白いとは思いませんでした(苦笑

 原作と違う箇所が多いことと、それに伴い原作読んでないと意味不明なのでは?と思われる箇所がいくつかあること、そして原作中にあるいくつかのテーマのうちどれも中途半端にしか描かれていないのではないかなあと不満が残る内容でした。映像の派手さと俳優さんが全部これでもかというほどの正統派で私はその辺は好きなのですが、真田広之・先任伍長仙石はちょっとスマートすぎるかなあ・・・と思います。ジョンヒに関しては原作読んでないとわけわからんでしょう。(そういやジョンヒ役のチェ・ミンソさんはこの映画に出たことを韓国でパッシングされたそうな・・・。韓国の方にも原作を読んでいただきたいもんです)
 映像の派手さと護衛艦の内部の映像が小説を読み直す際の助けにはなりましたがそれ以上の評価はないというのが映画版の感想です。

 原作版にあるテーマに目を向けるとやはり私などが考えさせられるのは日本のあり方と自衛隊の守るべきものとは何かということです。戦争の現実が変わり、現代においては先に攻撃を仕掛けたものが絶対有利というなか、専守防衛は成立しうるのか?「撃たれるまで撃つな」とは言うものの、先に撃たれたら命を落とす自衛隊員が生まれ、下手をすると日本国民の多くが死んでしまうという現実をどう受け止めるのか。われわれ日本国民は先の大戦で亡国の道を歩んだことを痛切に反省し、平和憲法の下の平和主義と心中する壮絶な覚悟をしたのですが、こういった矛盾を突きつけられるとそう理想に固執もできないのが私です。
 大学で平和学などもかじらせてもらった私としてはなかなか自衛隊を軍隊にせよと声高に叫ぶこともできないわけですが、この現実にどう対処するかということはやはり避けては通らない道なのだとは思います。ひとたび「先に撃たれる」という事態が自衛隊員を襲った場合、自衛隊員がただ撃たれるに任せて死ななければならないというならばそれは国民が安全にたいして認識不足であるがゆえに起こる悲劇なのではないだろうか?そしてそれは平和主義と並んで理念として掲げる人権の尊重という観点から見ると、自衛隊員に座して死ねというのと同義である行動を取らせる国民は自衛隊員を本当に人権を持つ一人の血が通った人間であることを認知しているのだろうか?という疑問は当然にわいてくるわけです。
 少なくとも高邁な理念を掲げるだけでなく、現実を見すえ実際その場面で自衛隊は何をしてよくて何をしてはだめなのか?ということを考えることはなにも好戦的と蔑まれるべき行為ではないのではないでしょうか。幸い私はあと2年の浮世離れした学生生活を送ることができます。そのうちに「みんなで考えていこう」などという努力目標的なものではなく自分はどういう考えを持ちどういう立場に立つのか自分なりの答えを探して行きたいと思います。

 平和と安全なんてテーマではまだまだ考えさせられることが多いのですが、だいたいのテーマに共通して行き当たるひとつの私なりの考えは、この日本人にいかほどのことが言えるのか。ということです。
 隣国が2つに分断され血で血を争いながら祖国統一に苦しみ、そのまた隣では12億の人民を抱え核武装している国に脅かされながらなんとか自らの権利を守ってきた国際社会にも取り残された小さな島があり、世界に視野を広げると絶え間ない争いに苦しむのを横目に見ながらも自国の安全に関しては考えないで済んだ国。水と安全は所与のものでありしかもタダ、そして自らの力で平和を勝ち取ったこともなく、ただ怠惰に資源を浪費するだけの国。苦しむ世界のなかでこの国の国民が本当に真剣に安全をかんがえることができるのだろうか。遠い世界の話でしかない戦争をどれほどのリアリズムをもって語れるのだろう?
 このあたりに対する個々の答えが日本という国のこれからのありようにかかわってくるのではないだろうかと私は思うのです。
posted by nyago at 00:13| Comment(0) | TrackBack(0) | TV・映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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