2006年08月31日

『光の雨』を見て

 『光の雨』という映画を見た。立松和平氏の小説で、舞台は現代。連合赤軍の統括の過程を描いた映画を作ろうとする現代の映画監督と若者たちを通して現代とあの時代を考察するという映画。(と少なくとも私は捉受け取った。)

  別に私が能動的に見たわけでなく、大学の授業の課題だったのだけどなかなか面白かった。つかこんな課題出す先生ナイス過ぎ。

 私はどう考えてもあの時代の革命思想のインテリ層の思想は理解できないだろう。あの人たちのレベル高すぎてついていけん(苦笑)。

 若い時代に、「苦しんでる人を救いたい」とか「平等な社会を実現したい」とか「社会を良くしたい」とか「権力を打倒したい」ってな理想を持たないってのは少し寂しいと思う。

 だけれど、それは常に危うさを伴ってるということでしょうな。日常から大きく乖離した運動は時として理性を狂わせるとでも申しましょうか。あくまで日常に根ざした、穏やかな運動が社会を変えるに一番穏健で効果的かなと思います。

 ただどっちかって言うと、「世の中を変えたいと思うのなら、自分が権力の構造に入っていたら?」というのがやはり私の考えの志向性かな。
 ほら、『踊る大捜査線』ってフジTVのドラマで今は亡きいかりや長介さんの和久刑事は役の中でこう言ってるじゃないですか「正しいことをしたかったら偉くなれ」ってね。無責任に吼えたり革命叫ぶのは誰でもできます。でも責任背負って批判覚悟で信じる道を突き進むのは並大抵のことじゃありません。

 そして申し訳ないけどどうも私は55〜70年くらいに学生やってた人の言うことは一歩引いて聞いてしまう癖がついてるかな。理由は単純で、私の父親も70年代初頭に残滓的な警官隊の激突の目撃者ですが、そこで父親の知り合いが警官の一人をなぐって失明させちゃったそうです。(んでその学生の捜査で父親の実家に警官が来たそうな)

 警官隊との激突でお亡くなりになった学生もいますが、同じように学生の側も権力の暴力装置の一員を傷つけて人生ぶち壊してたわけで。

 なんとなく虚しい矛盾を感じません?

 とまぁそういうことなのに、嬉々として、あの時代を権力との対決として嬉しそうに語る輩(うちの大学の教員にいたわけですが)なんて信用できるわけ無いんですな。

 そんな世代の人が、「人権」とか言われても…ねぇ。どこぞの人権団体は人権無視の人民裁判とかやったらしいし。時として「自分たちの側に立つ者の人権は認めるが、ほかは認めない」式の人権を感じるのが私です。
 あの時代の人で「語る人」はそういう方向でどこか少し違うものを感じる。どちらかというと「語らない人」の方がなにか思うところあるのかも知れません。

 人権の時代もこれからかなあと思います。正直、どこか違うなあと思う「あの時代」の小うるさい人々が引退して、暴力や排除思考を持たない本当の人権感覚を持った若い世代がこれからあらゆる場面で実力を持つでしょうから。

 さてそんな時代に私は何をしようかしら。

 (どーでもいいけど、逆シャアの「革命はいつもインテリが・・・」の件はもろにあの時代のことなのかな。)
posted by nyago at 00:12| Comment(0) | TrackBack(0) | TV・映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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